2025年9月、アサヒグループホールディングスで発生した大規模なシステム障害は、多くの企業にとって対岸の火事ではないことを強く認識させる出来事となりました。このサイバー攻撃は、単なる情報漏洩に留まらず、受注・出荷の停止、工場操業の混乱といった事業継続そのものに深刻な打撃を与えました。
本記事では、アサヒビールの事例で用いられたとされる現代の主要な脅威、RaaS(Ransomware as a Service)の構造を深く掘り下げ、ITや技術に興味を持つすべての方々に向けて、この新時代の脅威に対抗するための具体的な対策を解説します。
アサヒグループホールディングス被害の最新詳細と教訓

最新の被害状況と原因の特定
アサヒグループホールディングスは、2025年9月29日にサイバー攻撃によるシステム障害を発表しました。調査の結果、原因はランサムウェアによる攻撃であると特定されました。この攻撃により、国内グループ各社の受注・出荷業務がほぼ停止に追い込まれ、緊急事態対策本部が立ち上げられました。
- 発生時期: 2025年9月29日
- 原因: ランサムウェア攻撃
- 具体的な影響: 国内の受注・出荷業務の停止、工場での生産活動の一時停止、コールセンター業務の停止など。
- 復旧への道のり: 10月に入り、主要工場で「スーパードライ」など一部製品の製造は再開されたものの、本格的なシステム復旧には時間を要し、手作業での対応を余儀なくされました。
- 情報漏洩の疑い: 後に、ハッカー集団「Qilin(キリン)」が犯行声明を出し、約27GBのデータを窃取したと主張。アサヒグループ側も、流出した疑いのある情報をインターネット上で確認したと公表しています。
この事例は、ランサムウェア攻撃が企業の基幹システム(ERP、物流システム)を直接標的とし、業務を完全に停止させる現代の攻撃手法の深刻さを示しています。また、単なるデータの暗号化だけでなく、機密データを盗み出し、公開を盾に身代金を要求する「二重脅迫(ダブルエクストーション)」の手口が用いられた可能性も高い状況です。
デジタル化が生む「サプライチェーン・リスク」の深刻化
今回のシステム障害で特に注目すべきは、被害がアサヒグループ内部に留まらなかった点です。物流システムが停止したことにより、取引先や小売店、そして最終的な消費者にも影響が及びました。
物流や生産指示システムが機能不全に陥り、国内約30の工場がほぼ全面的な生産停止に追い込まれました。この混乱は、競合他社のサプライチェーンにまで波及し、一部商品の販売休止を招くなど、業界全体に衝撃波を与えました。
これは、現代のビジネスが高度にデジタル化され、システムが密接に連携しているからこそ生まれる「サプライチェーン・リスク」です。一つの企業のシステムがダウンすることで、その影響が取引先や物流業者を通じて連鎖的に広がり、社会インフラに近いレベルで機能不全に陥るリスクがあることを痛感させられました。
セキュリティ脅威「RaaS(Ransomware as a Service)」の解説

ランサムウェア攻撃がこれほど増加し、高度化している背景には、RaaS(Ransomware as a Service)という新しいビジネスモデルの存在があります。
RaaSとは
RaaSは「Ransomware as a Service」の略であり、その名の通り、ランサムウェアを「サービス」として提供・レンタルするビジネスモデルです。これは、クラウド上でソフトウェアを提供するSaaS(Software as a Service)と類似した構造を持っています。
- 利用者: 攻撃の実行者(アフィリエイト)
- 提供者: ランサムウェアの開発・運営者(オペレーター)
オペレーターは、高性能なランサムウェアツール、インフラ、さらにはカスタマーサポートまで提供し、アフィリエイトは利用料や、身代金収入の一定割合(レベニューシェア)を支払います。
RaaSの脅威の構造
RaaSの登場により、ランサムウェア攻撃の裾野は劇的に拡大しました。従来の攻撃者は、高度な技術力とリソースを必要としましたが、RaaSモデルでは役割分担が明確になり、技術的な知識が乏しい者でも簡単に攻撃を実行できるようになったのです。
主な役割分担
| 役割 | 機能 | 脅威激化への影響 |
|---|---|---|
| オペレーター(開発・運営者) | ランサムウェアのコード開発、インフラ維持、ツールの更新 | ツールの技術高度化と攻撃回避機能の洗練 |
| アフィリエイト(実行者) | 標的企業の選定、侵入経路の確保、ランサムウェアの実行 | 攻撃者の増加と攻撃頻度の急増 |
| IAB(Initial Access Broker) | 企業ネットワークへの侵入経路(盗んだ認証情報、VPNの脆弱性など)を販売 | 攻撃の初動の敷居が低下し、侵入が容易に |
この分業体制により、オペレーターはツールの品質向上に専念し、アフィリエイトはターゲット選定と実行に集中できるようになりました。結果として、より高度で巧妙なランサムウェア攻撃が、世界中の企業で日常的に発生する脅威となっているのです。
アサヒ事例とRaaSの脅威を踏まえた企業が取るべき具体的な対策

アサヒビールの事例が示すように、もはやサイバーセキュリティはIT部門だけの問題ではなく、事業継続(BCP)の最重要課題であり、経営層がコミットすべきリスクマネジメントです。RaaS時代における予防的かつ継続的なセキュリティ対策を提案します。
ランサムウェア対策の基本(多層防御)
一つの対策が破られても、次の防御層が食い止める「多層防御」の思想に基づいた対策が必要です。
- エンドポイントセキュリティの強化: 従来のアンチウイルスソフトに加え、EDR(Endpoint Detection and Response)を導入し、不正な挙動を早期に検知・対応できる体制を構築する。
- 認証の強化: VPNやリモートデスクトップ接続など、外部からのアクセス経路全てに多要素認証(MFA)を必須化し、盗まれた認証情報による不正アクセスを防ぐ。
- ネットワークの分離(セグメンテーション): ネットワークを細かく分け(セグメンテーション)、万一侵入されても被害範囲が基幹システム全体に及ばないようにする。
- 脆弱性の管理とパッチ適用: OSやアプリケーションの脆弱性を放置せず、パッチを迅速かつ定期的に適用する。攻撃者は既知の脆弱性を狙うケースが多い。
バックアップ体制の強化
ランサムウェア攻撃の最終防衛ラインは、確実なデータ復旧です。
- 3-2-1ルール: データを最低3つ持ち、2種類のメディアに保存し、そのうち1つはオフライン(隔離)環境に保管する。
- オフラインバックアップの重要性: RaaSグループは、暗号化の前にバックアップシステムを狙うため、ネットワークから完全に切り離された「エアギャップ」のあるオフラインバックアップが生命線となります。
- 復旧テストの定期実施: バックアップデータが本当に利用可能か、想定した時間内に復旧できるかを定期的にテストし、BCPの実効性を高める。
組織的な対策と従業員教育
技術的な対策だけでなく、組織全体のリスク意識が重要です。
| 対策項目 | 内容 |
|---|---|
| インシデント対応計画(BCP)の策定 | サイバー攻撃発生時の初動対応、意思決定プロセス、代替業務手順、顧客や取引先への情報公開基準を明確に定めておく。 |
| シミュレーション訓練 | インシデント対応計画に基づき、全社レベルでの机上・実働訓練を定期的に実施し、緊急時の役割と手順を熟知させる。 |
| セキュリティ教育 | 全従業員に対し、フィッシングメールの見分け方、不審なUSBデバイスを使わない、強力なパスワード設定など、具体的な脅威と対策を繰り返し教育する。特に**「ソーシャル・エンジニアリング」**の脅威を理解させることが重要です。 |
よくある質問(FAQ)

Q1: ランサムウェアに感染した場合、身代金は支払うべきですか?
A: 各国の政府機関は、原則として身代金の支払いを推奨していません。支払ってもデータが完全に復元される保証はなく、犯罪組織の資金源となり、将来の攻撃を助長することになります。まずは警察や専門のセキュリティベンダーに相談し、データ復元と法的な対応を最優先すべきです。
Q2: 中小企業でもRaaSの脅威はありますか?
A: はい、あります。RaaSのビジネスモデルは、技術的な敷居を下げたため、攻撃者は規模に関係なく、セキュリティが手薄な企業を無差別に標的にします。特に、大企業のサプライチェーンに組み込まれている中小企業は、大企業への侵入の足がかり(踏み台)として狙われるリスクが非常に高いため、最低限のバックアップ体制と教育は不可欠です。
Q3: アサヒグループの事例では、なぜ復旧に時間がかかったのですか?
A: 基幹システムが広範囲にわたり暗号化・破壊された場合、システム全体の再構築と、バックアップからのデータ整合性の確認に膨大な時間と手間がかかります。また、単にシステムを元に戻すだけでなく、攻撃者が残した痕跡(バックドアなど)を完全に除去し、安全性を確認してからでなければ本稼働に移れないため、数週間から数カ月を要することが一般的です。
結論:RaaS時代における予防的かつ継続的なセキュリティ対策の重要性

アサヒグループホールディングスへのサイバー攻撃は、もはや大規模なIT企業だけが標的になるわけではなく、国民生活に直結するメーカーやインフラ企業を含む、すべての企業にとって現実的な脅威であることを示しました。そして、その背後には、ランサムウェアをビジネスとして展開するRaaSという構造的な脅威が存在しています。
企業が取るべき対策は、高額なセキュリティ製品の導入に留まりません。BCPの観点から「システムダウン」と「データ漏洩」のリスクを経営課題と捉えること、そして、万一の際に業務を復旧させるための強固なバックアップ体制と、練り上げられたインシデント対応計画を準備することが、RaaS時代を生き抜くための鍵となります。
企業の存続を左右するサイバーセキュリティへの投資と継続的な改善は、もはやコストではなく、必須の事業投資であると認識し、予防的な対策を推進することが求められています。

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